Introduction
子どもから大人へと成長する“青春”の時代にどんな仲間と出会い、どんな体験を積み上げるのか。
“子どもたちには、向かい合う大切な仲間と生きる青春の瞬間に気づいてもらい、大人たちには、乗り越えてきた自らの青春を重ね合わせながら、今を生きる若者に向かい合ってほしい、そんな願いを込めてこの映画は創られた。
“本気”で原作に向かい合った10年が“奇跡”を起こした
原作は、地元八女で長年教師を務めた竹島由美子の10年間にわたる実践記録「野球部員、演劇の舞台に立つ!」(高文研刊)。
その記録の中でも異色の実体験が映画化された。
10年前に原作「野球部員、演劇の舞台に立つ」に出会った中山節夫監督は、なんとしても映画にしたいと動き始めた。
その思いを引き継いだのがプロデューサーの鈴木一美。
7年前、彼は、物語の舞台であった八女市に移り住み、粘り強く市民に語り続け、
次第に市民の理解と協力が広がる中でこの映画は製作された。
それは、若者たちに“本気”で向かい合った演劇部顧問と野球部の監督のように
“本気”でこの企画に向かい合う映画人と市民の姿が重なり合う“奇跡”の出来事だった。
子供たちの成長に熱い目を注ぎ続けた中山節夫
1970年「あつい壁」により監督デビューを果たし、以降独立プロに身を置きながら数々の名作を送り出し続けた中山節夫。
中でも子どもたちの成長に目を向けた作品の数々は、いまも教育に携わる関係者、そして子どもたちに大きな影響を与えている。
スクリーンに、そして裏方に―製作を支えた八女の市民たち
デジタルの技術革新などで映画製作現場は様変わりしている。
製作費の極端な縮減が進む中で、そのしわ寄せは現場スタッフに集中する。
このような環境では映画製作を支えるスタッフを育てることができない。
必要な体制、必要な予算で映画を作り上げるのだ、と独立系製作現場とは思えぬ製作予算が組まれた。
この製作を支えたのが、八女の行政とJAなどの理解と協力の下に結成された
映画「野球部員、演劇の舞台に立つ!」を応援する会と支援する会。
企画意図には賛意を持ちながらも、その実現はどうなのか?という空気の中で、
協賛金集めを始めとした製作環境づくりはすすめられた。
製作決定を受けてからは、繰り返すオーディションへの協力、ロケ交渉、現場撮影支援のボランティアなど、
“実態のある支援”活動を展開した。
“実態のある支援活動!?”
八女をはじめ周辺地域を含めた個人・団体に対する製作支援の呼びかけはもちろんのこと、
製作スタッフの中にボランティアスタッフを送り込み、オーディション、ロケの裏方をも務め、
映画をより豊かにするエピソードがいくつも作品に織り込まれた。
野球のシーンでは八女学院高等学校ブラスバンド部が活躍。映画のクライマックスとなる演劇コンクールで、
客席を埋めてくれたのは県立八女農業高校の500名近い生徒の皆さん。
予定時間を大幅に超えるロケにもかかわらず最後まで緊張を保ってくださった。
映画完成後、このロケ出演の感想文にスタッフは大感激。
出演する俳優たちへの注目はもちろんのこと、多くの生徒が現場で立ち働くスタッフに目を留め、
ひとつのものを作り上げるために集中する姿への感動を記していた。
「何かひとつのものを生み出すために立ち働く大人たちの姿が、生徒たちには新鮮に映ったのでしょう」と八女農業高校長。
Story
青春の時代にどんな仲間に出会い どんな体験を積み上げてきましたか
大人たちを忘れえぬ仲間との出会い 青春の時代に引き戻し
子どもたちには かけがえのない今の瞬間の大切さに気づかせてくれる
そんな映画が生まれました
甲子園出場を有力視されていた八女北高校野球部。
中でもエースピッチャーのジュン(渡辺佑太朗)は、特に注目され期待されていた。
しかし、県大会予選一回戦で8回までパーフェクトに押さえながら、
最終回ファーストのエラーをきっかけにまさかの逆転敗退。
敗北の責任をめぐってチーム内に広がる不協和音。
そんな時、男性部員がほとんどいない演劇部顧問三上先生(宮崎美子)から
野球部員を助っ人にほしいという申し出があった。
「野球だけの人間になるな」という指導理念を持つ八幡監督(宇梶剛士)はこれ受け、
ジュンとキャッチャーでキャプテンのリョータ(舟津大地)と、
エラーをしたファーストのカズマ(川籠石駿平)の三人を演劇部の助っ人に送り出した。
「俺たちにそんなヒマはない」と反発する野球部員たち。
突然の助っ人に役を奪われた演劇部員。とりわけ反発を示したのが
三人と同級のミオ(柴田杏花)であった。
“なんで野球部なんかに”という声に演劇部OB田川(林遣都)が応えた…。
演劇部の目指すコンクールまで2ヶ月、とまどい、反発しあう日々の中で、
何かが確かに動き始めた。